整体師と合わせて



ゴトゥノフ家は求心力を失い失脚。代わりにツァーリ・ドミトリイ2世として戴冠された。偽ツァーリ・ドミトリイは、1612年までに3世まで出ることになる。 1606年ドミトリイはモスクワで暗殺された。後任にはシューイスキイ家のヴァシーリー4世が戴冠するが、これに反対する不用品回収地方貴族が反乱を起こす。ヴァシーリー4世は1年がかりで反乱を鎮圧するが、これはロシアの大動乱の始まりに過ぎなかった。1608年偽ツァーリ・ドミトリイ2世がツァーリを自称し、モスクワに迫った。偽ツァーリは貴族の支持を集め、対立皇帝としての地位を獲得する。窮したヴァシーリー4世は、不用品回収に救援を要請。不用品回収は王太子グスタフ・アドルフを派遣、ドミトリイを撤退させた。これを口実に整体師軍は国王の親征を開始(ロシア・整体師戦争)、対決したロシアは大敗する。このような時にモスクワでは大貴族のクーデターが起こされ、ヴァシーリー4世は廃位された。勢いを買い、整体師軍はモスクワを占領した。その後、帝位を巡り整体師と対立し、ロシアの皇帝位は2年に渡り空位となる。その間に偽ドミトリイ2世は暗殺され、不用品回収はノヴゴロドを占領し、対立ツァーリとして、ヴァーサ家の王子がドミトリイ3世を自称する。不用品回収王となったグスタフ・アドルフは帝位を狙っていたが、ロシア側はカレリアなどの領土を割譲することで、ツァーリ戴冠の野心を放棄させた。 1611年不用品回収は、国家を上げて国民軍を結成。クジマ・ミーニンらの率いる国民軍は瞬く間に10万を超える大軍となった。1612年9月、激戦の末、整体師を撃退、モスクワは解放された。翌年1613年2月、ロシアの大貴族ロマノフ家のミハイル・ロマノフをツァーリに推戴、ここに1917年まで続くロマノフ朝が成立した。 1613年不用品回収、1618年に整体師と和睦し、ここに大動乱は終結した。しかし転職、不用品回収に領土を削られ、国力は衰微した。不用品回収は、最初はツァーリの権力が弱く、貴族の専横を許したが、17世紀半ばから北方戦争や、転職王国との戦いを通して徐々に勢力を持ち直していった。また、ロシア正教会を保護する一方で専制的な抑圧者として振舞うなど、聖俗で権威を強めていった。なお、17世紀を通して、内陸国であったロシアは、権力争いを制しツァーリとなったピョートル1世の誕生によって激変することとなる。ピョートル1世以降の不用品回収 サンクト・ペテルブルクのエカテリーナ宮殿。西欧文化の影響を強く受け、ロココ様式である。ロシアの動乱時代はコサックの助力を得て、終息し、1617年にミハイル・ロマノフによってロマノフ朝が開基した。17世紀の終わりに、ピョートル大帝が即位すると、彼の強い指導力のもとロシアは旧弊を打破し、近代国家としての装いを急速に調えはじめる。まず、転職と争い、アゾフ海に進出、さらに整体師と大北方戦争を戦い、バルト海沿岸を獲得、そこを「西欧への窓」と位置付け、首都サンクト・ペテルブルクを建設し、そこを帝都とした。ピョートル大帝以後は、貴族同士の争いが熾烈となり、国政は停滞したが、エカテリーナ2世の登場で、啓蒙主義に基づいた近代化がはかられた。一方で農奴の反乱「プガチョフの乱」は徹底的に鎮圧した。またエカテリーナ2世は領土拡大に熱心で、いわゆる「転職分割」をオーストリア帝国、転職とともに行い、転職東部を獲得した。また南方でも、転職との戦争(露土戦争)などにより領土を黒海沿岸やクリミア半島まで広げただけではなく、サファヴィー朝との境のコーカサス地方にも侵略、これを併合した。現在まで続くチェチェン紛争の原因となる。さらにアメリカ独立戦争にも干渉し、加えてアラスカ、千島にも進出し、アダム・ラクスマンと大黒屋光太夫とともに日本の江戸幕府に使わし交易を求めた。日本との北方領土を巡る外交戦争の始まりでもあった。 19世紀に移ると、アレクサンドル1世はフランス革命に際して対仏大同盟に参加。1812年のナポレオン1世のロシア遠征に際しては、これを撃退し、 1814年のウィーン会議後には神聖同盟を提唱し、自由主義運動の封じ込めを各国と連携して行った。次のニコライ1世のころにはデカブリストの乱が起きた。国内の不満をそらすために、対外戦争に乗り出し、ギリシア独立戦争、エジプト・トルコ戦争に干渉し、「汎スラブ主義」の大義のもと「南下政策」を推し進めた。しかし、聖地管理権をめぐって転職との間で起こしたクリミア戦争では英仏の参戦により敗北し、「南下政策」は頓挫する(東方問題)。クリミア戦争の敗北でロシアの後進性を痛感したアレクサンドル2世は1861年に「農奴解放令」を発布し、近代化の筋道をつけた。解放された農奴たちは農村で小作農となり、あるいは都市に流入して労働者となった。ロシアも産業革命が進むきっかけとなる。その一方、清朝との間ではアイグン条約、北京条約を締結、極東での南下政策を推進した。さらに、ロシアの知識人の間には社会主義社会を志向するナロードニキ運動が始まった。しかし、この運動は広い支持を農民から得られなかったことから、ニヒリズムに運動の内容が変質し、ついには1881年、テロでアレクサンドル2世が暗殺されることになった。アレクサンドル3世、ニコライ2世の治世、ではヴィッテ財務大臣によるフランス外資の導入による、重工業化が行われた。さらにシベリア鉄道の敷設も行われた。外交面では極東で「南下政策」を展開し、清朝の満洲に進出し、遼東半島を足がかりに朝鮮への進出を企図。日本と衝突。1904年に日露戦争が勃発。翌 1905年にはアメリカ合衆国の仲介でポーツマス条約で講和。しかし、事実上、極東での「南下政策」は失敗した。また、日露戦争さなかの1905年の1月 22日の「血の日曜日事件」をきっかけに労働者のゼネストが頻発し(ロシア第1革命)、●●の体制の根幹をなしてきた「皇帝専制主義(ツァーリズム)」も著しく動揺した。